プロローグ
蒸し暑い午後の牧場に、七月の太陽が照り付けていた。体中にハエやアブがたかり、糞の悪臭が鼻を突く。いつもは付合いのいい羊も追い掛け回されることにうんざりして、しきりに囲いから出たがった。囲いの中に入っていたのは私と数十匹の羊、それに不安定でややこしいボーダーコリーオーソンだ。
「伏せ!」
これといって効き目が無いのに繰り返すたびに大声になる。
自分の怒鳴り声にうっすら嫌悪を感じたが、何がそうさせるのか、思い当たることが無い。この犬種にありがちな気質のオーソンには、オーソン独自の方針があって、それは私の目指すものとはまったく違う。
やつは猛烈な勢いで周囲を駆け回ると、群れのど真ん中に飛び込んで羊毛を口いっぱい頬張っている。もう少しひと所にとどまろうものなら、いきり立って振り回す私の牧羊杖が当たってしまったかもしれない。
つくづく嫌になった。私たちの羊追いは、ディスカバリーチャンネルで見かけるものとは違う。汗だくで、そこら中に不快な物がこびりつき、虫の刺し跡とミミズ腫れだらけだ。さらに悪いことに、私の犬は一度たりとも〈伏せ〉をしなかった。オーソンの羊追いのコンセプトには、羊飼いとの牧歌的で優雅な連携作業など無い。やつのは、一番大きい羊に飛び掛かって引きずり回してやることだ。
トレーナーのキャロリン・ウィルキーが、バギーのエンジン音をバタバタさせながら、この泥沼から私と犬を引っ張り出しにやって来た。どんな天候でも同じソフト帽を被り同じマントを翻すこの侮りがたい人物は、ここペンシルベニア、ラズベリーリッジ牧場の主(あるじ)だ。「犬にリードを付けて、囲いから出な!」と不機嫌に命じた。
キャロリンとは馬が合う。時間を忘れて人生や犬の話で盛り上がり、口論もする。ただ獣医、ブリーダー、保護活動のメンバーやトレーナーなど、犬を扱う分野の専門家によくあることだが、キャロリンも他人の犬扱いについては少々愛想が無くなり、おおらかさを失う。
「キャッツ! いいかい! ありゃ、まともなトレーニングじゃない。ムカついてるだけだ。いちいち反応し過ぎ、喋り過ぎだ。はっきり言って、いい犬が欲しけりゃ、こっちもいい人間じゃなくって、どうするんだい!」
不意を突かれた。犬のトレーナーから聞くとは思わない、聞きたくもない一言だったが、図星だ。短気でせっかち。衝動的。挫折感の塊。しっかり見たり聞いたりするのが苦手。五十代も半ばだというのに、今もって簡単には克服できない人生最大の難題をキャロリンは指摘していた。このダメ犬への思いだけが、自分の総点検などという大仕事に取り掛かろうという気にさせた。
あの暑く不快なペンシルベニアの午後から二年が経ったが、マシになったのかどうかは分からない。努力だけは続けているものの、その判断は私以外の方々にお願いしようと思う。それでも相棒はいい犬になってきた。
キャロリンの言ったことは本当だ。おそらく本人が思いもしないほどだろう。今は、私のやる気を映し出し、再三の失敗を手厳しく測る尺度が犬だ。数年前、クレートに入ってニューアーク空港にやって来た、怖がって半狂乱の毛玉だらけだったオーソンが、まるで違う犬になった。反応も良く、穏やかで可愛い。それは私が我慢を覚え、怒りっぽくなくなり、学ぼう、成長しようと努力した結果だと信じている。いずれにしても、犬は私を映す鏡、レベルアップや努力不足の指標だ。
何について書いたものか、出版した後にようやくはっきりすることがある。時間の経過、人生、思い出、読者の存在がフィルターとなり、俯瞰して見ることで焦点が合ってくる。
例えば、以前書いた二冊は異なったものを書いたにもかかわらず、どちらも同じ題材を扱っていたのだと今になって気が付いた。長年にわたるこのジタバタも、犬と渾然一体となって切っても切れない。やり方は他にもいっぱいあるだろう。私もこの方法を選んだわけではない。犬が選んだのだと思う。
あの日のキャロリンは、私をとがめたのではなく、説得力のあることを口にしただけだ。犬は文句を言わない。計算高くもない。飼い主の真意に感謝もしないが、悪態も吐かない。
例外的な事情や体質を除いて、犬の問題は、飼い主によって付加されたものか、修正されていないことが一般的だ。犬には責任などないが、飼い主にはある。
犬にも個性や性格があるにはある。しかし、犬は飼い主の過去や家庭環境、気力、フラストレーションを物語る生きた証だ。習性や本能も持ってはいるが、かなりの部分は飼い主によって作られ、教え込まれたものだ。
子犬のときから育てた犬は、理解してやろう、かわいがろう、きちんとトレーニングしようという飼い主の気持ちがそのまま現れる。苦境から救い出した犬や、途中から引き取った犬は、しばしば厄介で、飼い主の努力が一段と必要になる。
どちらにしても飼い主の責任は非常に重い。最近は犬を人間代わりにし、子ども同様に考えることが流行している。お犬様状態の犬も見かける。しかし、私はこの生き物との特別な絆について異なった思いを持つ。言葉を持たない犬の代弁者、先導者でありたいと思っている。
七月のあの日、私の曖昧な指示でもなんとか理解し、懸命に喜ばそうとしたボーダーコリーを衝撃と共に見詰めながら、これまで以上に努力が必要なのは、私の方だとはっきり知ったのだった。
あの夏からなんと人生が違ったものになったことだろう。オーソンがもたらした大改造は自分でも信じられぬほどだ。かわいがっていた二匹の黄ラブの一方は癌で、もう一方は心臓疾患で逝った。その後任は全ての面で対極にあるボーダーコリーの三匹、オーソン、ホーマー、ローズだ。前の本に登場した山小屋を手放し、三十キロほど北に、四棟のおんぼろ家畜小屋、搾乳小屋、十七万平米ほどの牧場と、森まで付いた古い農家を手に入れた。
書くものも違ったものになった。今は犬のことを扱っている。新たに良い友人にも恵まれ、自分の親族との、特に長期間疎遠だった懐かしい姉との交流が恐る恐る始まっている。
直接にしろ、間接にしろ、この犬を手に入れたことが全ての始まりだった。助けてやったとうぬぼれていたら、どうやらテキパキと私のほうが助け出されたらしい。私はオーソンに保護された人間だと冗談を言うのが気に入っているが、実は本当のことだ。
本書を執筆するにあたり、その着想のいくつかを退職されたある英文学者から頂戴したと言わねばならない。
去年、オーソンとホーマーを連れて、ニューイングランドからケンタッキー、そして中西部にと、三ヵ月の出版宣伝ツアーに出たときのことだ。ウィスコンシン州ブルックフィールドの春の夜、エレガントな物腰で、いかにも本好きといった風合いのご婦人がサイン会のあとに近付いてきた。犬よりも本の方が好きだと言って、糞の始末や無駄吠え、子犬についての質問は無いが、あなたの書くものが気に入っていると、手短に見識ある批評をいくつか頂いた。立ち去りながら、「また犬のことをお書きになるのでしょ?」と言う。力尽きるまで犬と人を題材に書くつもりだったから、黙ってうなずくと、
「では、お願いしたいことがあるの。あなたのご信条に触るものではないと思うのよ。犬が死なないものを書いて下さらない? この年齢になりますとね、大切なことなの」
握手を交わして別れたが、ホテルに帰る道すがら、嬉しくて顔がほころびっ放しだった。
ということで、ここでこの本のことを少し申し上げても差し支えはないだろう。これは、どのように犬に導かれ、促されて、自分と向き合うことになったか、前進しようと努力するに至ったかという話だ。犬が関わることで人生は驚くほど変わり得る。
極寒のひと冬、ニューヨーク州北部の風が吹きさらす丘の上で、都会生活の経験しかない新参者が、無理の利かない脚を糞まみれの長靴に入れ、立ち現れる嫌な記憶に苦しみつつ、多くの友の助けを命綱に、初心者にしては多過ぎる頭数の家畜を相手に悪戦苦闘する話をここに書いた。運命の分かれ目も、人生のミステリーもすぐそこにあって、あっと言う間に迫ってくるという事実も扱っている。
最後に、かのチェノウイッツ教授に感謝を込めて。
人生を誠実に描く書物において喪失と苦悩はつきものですが、ここに謹んでお知らせします。この本の中では、どの犬も死にません。
ジョン・キャッツ
ニューヨーク州、西へブロンのベドラム牧場にて
第1章 中年の大博打
ベドラムとは、騒々しく混乱した状態、状況、または場所のことをいう。(コロンビア百科事典)
朝靄が晴れるにつれて、はるか向こうに見える家畜輸送のトレーラーが、この集落を目指して三十号線をセーラムから西へとやって来るのが見えた。新居の裏山からは、何キロも先の訪問者を見付けることができる。ここニューヨーク州北部の四半分には牧場がたくさんあって、家畜運搬など日常茶飯事だが、あそこに行くのは、犬によく慣れた十五匹のご婦人方と牡羊ネスビットをペンシルベニア州ベセルから運んで来た、ウィルバー・プライスのトラックと見当がついた。
そういうことなら、丘を下っていく時間だ。変化はすぐそこまで来ていた。大転換だ。三匹のボーダーコリーにとって、自分の庭に羊がやって来るほど有意義なことなどないが、私にとってのこの変化はそんな単純な話ではない。激変であるばかりか、またしても中年男の大博打という面があるのは否めない。一つの生活を離れ、新たな生活へと移る。これに三匹が関係しているのは紛れもない事実だ。
トラックが村へと下る間に、私たちもおぼつかない足取りで丘を下りた。傾いてペンキが剥がれかかった乳牛舎、もっとはっきり傾いた豚小屋、旺盛な雑草に埋没しているニワトリ小屋と、他にもいくつか小屋があるこの牧場は、この辺りではキーじいさんの牧場として知られる。それがキャッツじいさんの牧場となるかは怪しいもんだが、あと数分もすれば、再びここは家畜のすみかとなって、丘を見上げれば動物が牧草をモグモグやるのを目にすることになる。
私は農民ではない。この牧場も、まともに稼働していると言える代物じゃない。犬好きの作家の牧場だから、ここはボーダーコリー中心のアドベンチャーファームといったところか。動物が到着する数週間前に引っ越して開業準備を始めたが、南北戦争時代のこの農家と十七万平米の土地を見て回るのでさえ、驚くほどの手間がかかった。だがこれで、農作業の難しさや厳しさをやっと想像できるようになっただけだろう。過酷な冬場の労働は、一段と大変だ。私のやることは、本物の農民に比べたら取るに足りない。牧場経営が生計の中心ではないことも大きな違いだ。
予想どおり、荷室が騒がしいウィルバー・プライスのトレーラーが砂利の私道に停まって待っていた。でかい野球帽を被り、オーバーオールを着た話好きのウィルバーと握手を交わし、天候やドライブ、途中で霧に出くわして危なかったことを聞いたが、夜通し家畜を運んできたウィルバーは、さらに会話らしい会話を交わすチャンスを逃す気はなさそうだ。
一方、私はさっさと住民を牧場に入れたくてうずうずしていた。柵をめぐらし、干し草やワラを畜舎に搬入し、コーンや餌を詰め込んだ小獣除けの蓋が付いたコンテナをあちこちに設置してというかなりの奮闘努力に加え、うろたえるほどの出費をした後だ。私のような人間には、これ以上ないというほど用意が整っている。しかし、田舎では社交が省けないことも学んでいた。犬のトレーニングセンターを兼ねたラズベリーリッジ牧場からの運転は、長く退屈なものだっただろう。この雌羊たちは、もっと大きな群れから借り受けたものだ。だから羊とは見知った仲だ。
年長の犬二匹を連れてラズベリーリッジに足繁く通っては、羊追いの実習生として、雨天、晴天、深夜に昼日中、猛暑や厳寒と、数え切れないほど羊を放牧地に連れ出した。競技会で動かし、レッスンで追い立て、森に迷い込んだ羊を探し出し、出産にも数回立ち会っている。牡羊ネスビットとも知り合いだ。こいつには何度も頭突きを食らって宙を舞う経験をしている。ゆめゆめ油断のないように気を付けたい。
体を入れ替える音や息使いが、トレーラーの中から聞こえた。腹が減って、喉も渇いているだろう。咳き込むようないななきも聞こえる。キャロリンが間際になってロバも混ぜたらしい。ラズベリーリッジ牧場では孤立して暮らしていたロバだったが、ここなら生活の質を向上させてやれるかも、と考えたのだろう。ロバのキャロルは可愛いやつだ。りんごのプレゼントが効いて仲良しになった。見知らぬ環境でも私だと分かってくれるだろうか。
腰を上げる頃合いと感じたウィルバーは、トラックをゆっくり後ろに下げて、ゲートから一メートルほど中に入り、かんぬきを引き抜いて荷台を開けた。独りぼっちのキャロルが再度いなないて辺りを見回し、差し出されたドンキークッキーを器用につまんで平らげ、スロープを駆け降りてくる。私のことを覚えている気がしたが、そうでなくてもクッキーはうれしかっただろう。
キャロルの後から、ネスビットと十五匹の雌羊が非難がましい視線をこちらに投げて通りすぎ、青々とした丘でたちまちムシャムシャとやり出した。犬と違って、羊は何事にも執着することがない。草があればいい。草さえあればそれでいいのだ。
トラックの車内で小切手を切り、ウィルバーと握手を交わした。ベドラム牧場の開業だ。オーソン、ホーマー、ローズは、数メートル離れた囲いの中で身じろぎもせずに座ったままだ。びっくりして目を見開き、耳や尻尾を立てている。どんな生き物にも、これほど集中した様子はそうそう見られるもんじゃない。
丘の霧を分ける秋の風は冷たく、見上げれば羊の小さな群れとロバが古いりんごの木の近くで草を食べている。羊とロバは、地面から生え出てずっとそこにいたかのようだ。信じられない光景だった。ウィルバーは夕飯までに家に着きたいとコーヒーなどの誘いを断り、ガチャガチャバンバンとぶっつけたりひっぱたいたりしながら荷台を戻して、村落に続く泥道を世間へと戻っていった。
ニュージャージー郊外で妻とありきたりの日常を送りながら、私と犬が週に一、二回、車を飛ばしてキャロリンの牧場へ手伝いに行くのが一つのかたちだとしたら、台所の窓のすぐ向こうで生きる羊に責任を持つというのは、それとは別ものだ。羊には予防注射や寄生虫駆除を施し、獣医から診断書をもらわねばならない。毛刈りや削蹄も必要だ。冬を乗り切らせるためにはコーンでカロリーを蓄えさせ、妊娠すればビタミンのサプリメントを与える。寝床にするワラもいる。初霜が降りて牧草が枯れれば干し草を食わせ、氷点下の気温になっても新鮮な水の供給は必須だ。
数ヵ月もすれば、生まれ落ちた赤ん坊の居場所を素早く突き止め、体を拭いて暖房灯の下に入れてやり、群れから隔離し、タグ付けと登録が必要になる。しばしば特別なサプリメントを与えることも、断尾もしなきゃならない。猛吹雪になれば、群れ全体にも待避小屋がいる。冬の嵐はあと数週間でやって来る。積雪が腰の高さになり、積氷が三十センチにもなる中、こういうこと全てを一人で賄わなければならない。またそうでありたいと思う。
牧場の購入に当たり、妻のポーラは私が厳守すべき決まりを作った。
一、火器の使用禁止
二、農業用その他の重機全ての使用厳禁
三、干し草運搬などの農作業用に購入した、バカでかい一九八二年製のシェビーシルバラードのトラックは、半径八キロ以内の使用に限る(ポーラは、まずいタイミングでトラックが故障して、徒歩で帰らざるを得ない羽目になると確信していた)
これらのルールがいかに賢明であるか、私をご存じの方々はお分かりだろう。というわけで、家畜小屋の修繕や排水溝の設置など重機が必要なもの以外の仕事は全部、私の両肩に落ちてきた。ウィルバーのトラックの姿が見えなくなるまで手を振った後には、高揚した気分とは裏腹に、へたり込みそうな感覚が襲った。もう後戻りはできない。
その日の朝はかなり早く、五時頃、ここでのルーティーンで始まった。鞭打つ風が尾根の木々の葉をむしって吹き抜ける中、私とオーソン、ホーマー、子犬のローズが裏の急斜面を骨折りながら登っていく。禁断の夜明け前ですら、田舎のこれほど美しい場所に土地を持てたことが信じられない。この辺りの人がコイドッグと呼ぶコヨーテの鳴き声が、時折キャンキャンと聞こえてくる。もうすぐ到着する羊の周りを、奴らがうろつくようになるのはいつだろう。
正直に言うと、頂上に置いたアディロンダックチェア二脚を目指して苦労しながら登っているのは、私だけだ。犬は苦もなく競いながら滑走し、ボーダーコリーらしくあっちこっちビュンビュンと夢中になって円を描きながら、前になり後ろになり、私を中心にぐるぐる行ったり来たりしている。何となく私が羊代わりになっているこの妙な歩き方にも慣れた。オーソンとホーマーがエネルギー豊富なのは分かるとしても、私が数歩登る間に、子犬のローズまでも草地の端から端へと走り回っている。
どんな犬にも逸話があるものだが、オーソンはちょっとばかり世間に知られた犬だ。かわいがっていた黄ラブ二匹について綴った私の一冊を読んだテキサスのブリーダーが、不適切と見なした飼い主から取り戻した犬を送ってきた。それが当時デヴォンと呼ばれていたオーソン、問題を抱えた犬だった。不安定で支離滅裂なこの犬は、通り過ぎるミニバンに飛び付き、羊に見立ててスクールバスを追い回し、冷蔵庫のものは失敬するわ、窓ガラスは突き破るわ……。生活を立て直す手助けをしてくれた優秀なトレーナー、キャロリンと出会うまで大騒動の日々だった。
オーソンの次にやって来たのはホーマーだ。扱いづらいオーソンを補うほど従順で可愛い犬だ。しかし、どんな犬でもそれなりに難題をもたらす。そして数ヵ月前、この二匹にローズが加わった。ローズは、オーソンやホーマーが石像にでもなったように感じるほど優れた牧羊犬の系統を受け継ぐ、原子力並みのパワーを持つ子犬だ。周りの人は三匹目を手に入れた理由を聞くが、答えようがない。一匹目を手に入れたことも、いまだに説明できない。
「おい、今日はお前たちにとって最高の日だ! 十五匹の雌羊と根性曲がりの牡羊ネスビット、それに多分ロバもやって来る。ネスビットには注意してくれよ、一発食らいかねないからな」
穏やかな時間と美しい風景を堪能し、三冊の本を執筆した頂の懐かしい隠れ家を売りに出したのは、数ヵ月前のことだ。少々の土地とポーチ付きの、ことによると家畜小屋なんかもある古い農家が欲しくなった。偶然が重なって、予想外の物件が手に入った。希望していたよりも広い土地に愛らしい家、予定より多い棟数の見込みよりも朽ちた納屋、コヨーテの群れ、鷹や鳴禽類、スズメバチとノミ、野生化した猫の群れ、猫がいるのに住み着いている野ネズミと家ネズミの群れ、アライグマ、シマリス、キツネ、鹿の大群、未確認情報ではあるが、二頭のヘラ鹿とピューマまでいるという。
この他にも、牧場と畜舎とトウモロコシ畑が市松模様を織り成す、緑豊かな谷を見渡す眺めも付いている。この古風なグリークリバイバル様式の白い農家は、三、四十軒ほどの家が点在する小さな集落、時代物の美しい教会が二つ、前を通りかかって店の名に唖然とした万屋ベドラム横丁などを見下ろす丘の中腹に建っている。この牧場は数々の歴史を目撃してきたのだ。
へブロンから半時間ほど南に下った以前の山小屋は、作家の内省的な個人空間、息抜きの場所だった。執筆をし、読書をし、犬と山歩きを楽しんだ。しかし妻と娘や数人の友人を除くと、他人の目に触れることはない、私だけの場所で、それが問題だった。山小屋が気に入るに連れ、その存在が大きくなるに連れ、ある種の挫折を感じた。建物自体もあまりに狭く、私と犬の居場所を確保するのがやっとだ。ポーラが来ればぎゅうぎゅう詰め、娘のエマは言うまでもない。私一人の隠れ家ではなく、ポーラも不自由なく仕事ができ、エマが友達と過ごせるスペースがある、そんな家族のための田舎家が欲しくなった。独りで黙想するより、にぎやかにやる場所を手に入れたくなったのだ。隠れ家を必要としない気持ちの用意はできたが、こんなにも隠れていられなくなるとは思いも寄らなかった。
それまでとは違う局面を迎え、何かを変える場合は、どう取り組むべきか意識を持ってしっかり考えることを心掛けている。私は五十六歳になった。この先、家を買い替えるなんてことが何回あるだろう。何匹の犬を迎え入れるだろう。こういう場所でポーラと過ごすのは、あとどのくらいだろう。
以前の山小屋も無理をしたのに、本当は牧場など持てるはずはないのだ。しかし待つ時間の余裕がないのも事実だ。ここ何年も、特にニューヨークの同時多発テロ以来、人生を見つめ直して生活を変えるべく、ニューヨーク州北部に土地を求める人々を目にしてきた。あと五年経てば、大きな土地を買うことなど疑わしい。私の山小屋は、二年も売れずに放置された見苦しいものだった。ところが、今回は売りに出した途端、一週間も経たずに売却できてしまった。
頭に描く物件を探しながら不動産屋の女性の車でヘブロンの集落を回った。この辺りを通り掛かると、その女性が丘を見上げながら、残念そうに白い農家を指差した。「あの家なんか、ちょうどなのにねえ。でも売りに出てない」ところが三週間後、突然その農家が売りに出された。犬と同じで、家のほうから転がり込んでくることがある。
人と犬について常日頃から考えていることを、ひと群れの羊とボーダーコリーと共に試すのに、何とここは良いところだろう。うちの犬はもっと幸せになり、もっと頼れる相棒になってくれるだろうか。私は、成長する方法を学ぶだろうか。輝く紅葉の秋から厳しい北国の冬を、私と犬と家畜の小さな群れがひっそりと丘の中腹で過ごし、羊がいっぱい生まれる泥まみれの冷たい春が来る頃には、その答えを知ることができるかもしれない。
二ヵ月後、引っ越し荷物を解いた。それからは干し草の発注交渉、素っ気ないバーモントの柵屋への柵の依頼、ガタつく納屋の扉との格闘と、まるでここ数年分の活動を数日、数週間に凝縮したみたいだ。大切な山小屋を売却して、もっと手の掛かる物件を手に入れ、荷物をまとめて引っ越し、取り合わせた家畜と暮らすために、際限なく出てくる細かな手筈を整えた。
「あと数時間で、裏口の向こうに羊がいるようになるんだぞ」暗闇の中で息を切らして丘を登りながら告げると、これは思ったよりウケた。羊という言葉だけで三匹が辺りを見回す。キャロリンの牧場へ数回行っただけのローズですら、すでに羊のとりこだ。羊追いに似た動きを見せている。
自分と家族のためにここを購入したが、妻は犬のためでもあるという私の下心を見抜いていた。境界線が見渡せないほど広い土地を持つことは素晴らしい。だが、この犬種が数百年間携わってきた心底好きなことをさせてやり、その技術を習熟できるチャンスを与えられる土地を手にすることは、それとはまた次元の違うことだ。
気立ては良いが、ためらいがちなホーマーへのここ数年に及ぶ気掛りを解決して、家族のど真ん中に押し出してやれるかもしれない。オーソンと始めた手間のかかる取り組みが成果を上げて、やつに世の中ってものを教えてもやれそうだ。驚くほどのエネルギーを持つローズが与えてくれたチャンスも生かせる。この非凡な子犬が台無しにならないように、今まで調べたり学んだりした知識を活用できるだろう。
冷たい風を受け流すために熱いコーヒーを保温マグに入れ、聖アウグスティヌスの『神の国』の一冊を懐に、悪い足首にとどめを刺さないように杖にすがりながら三匹と頂上を目指した。こいつを開業日に朗読して、牧場と冒険生活を祝福してやろうと思っていた。私はユダヤ人の家庭に生まれ、ユダヤ教の環境で育った。その後キリスト教クエーカリズムに改宗したが、それでもやはり宗教はよく分からない。キリスト教黎明期の混沌とした時代に活躍した著述家聖アウグスティヌスは、私にとって精神の先達だ。聖人と彼の一門は、当時の世の中を理解するために苦闘した。この『神の国』は、ローマ帝国の崩壊とその後の暗黒時代を果敢に解明しようとした努力のたまものだ。
宗教についてはいつもジタバタしているが、それでも精神性を見限ったことはない。ただ、この二つを区別することは容易ではないだろう。犬に心底惚れ込み、面倒くさい関わり方をする私が精神性という言葉を用いること自体、肯定してもらえるのか自信はない。
犬に霊感やテレパシーがあるとも、あの世でまた会えるとも、霊媒が犬の心の奥底を読めるとも思わないが、それでも犬との絆が時に深淵な意味を持つと信じている。犬は絶妙なタイミングで現れ、人間の生活に自分を織り込んでいく驚異的な資質がある。これが犬の愛すべき性質の一つ、見事な順応性のカギだ。
今朝は思っていたことを実行する朝だ。西へブロンでは早朝の丘登りが日課になっている。ゴツゴツした険しい斜面を犬と登り、日の出を待つ。これほど良い一日の始まりがあるだろうか。戻ったら書斎の薪ストーブを焚いて、たっぷり数時間は執筆に集中することができる。犬にはやって来る羊に備えて、走り回った後の休息を取らせよう。
犬は、その独特な方法で人の心を読むエキスパートだ。うちの犬も私が何をしているのか大まかには理解している。文字通りできるわけではないが、何か重大なことが始まるのを感じ取っている。
吹き返しの強風はあったが、ハリケーン・イザベルの勢力が弱まり、今朝は嵐の闇夜の後に決まって訪れる、怪しいほど美しい夜明けだ。バーモントまで伸びる稜線に太陽の光が広がるにしたがって、尾根は霧の衣をまとっていく。人生のほとんどを都会や都市近郊の込み合った環境で過ごしてきた者にとって、この美しい眺めが当たり前には思えない。高揚感を感じ、気持ちが和らいで癒やされ、勇気が湧いてきた。
走り回るのをやめた犬たちは、小首をかしげ、虚空に鼻を差し上げている。風に乗った遠い場所の匂いだろうか、不思議な匂いを嗅ぎ分けようとしていた。痛む足を引きずり、息を切らし、やっと丘の椅子までたどり着いて、その一つにドサリと腰を下ろすと、オーソンが二つ目の椅子に飛び乗った。ホーマーとローズは原っぱを駆け回っている。それを見たオーソンが、低くうなりながら椅子を降りて、大騒ぎをやめさせようと向かい始めた。
「放っておけよ。子どもは遊ばせてやろうな。俺たちオヤジは、座ってこいつを読もうじゃないか」
頭に手を置いてなだめると、オーソンは表情を和らげて膝に顎を乗せた。オーソンと一緒に暮らし始めて四年と経たないが、全てを語るのは難しいほど数々のことを乗り越えてきた。こいつと生活するのは、どれほど大変か。その分報われ、複雑に絡み合い、お互いが大切なものになっている。オーソンは突然やって来て私の性根を揺さぶり、人生行路も変えてしまった。やっとこいつに応えることができたと思った。
「なんてことをしてくれたんだ、相棒。みんな、お前のせいだぞ」
この気難しい犬に言ったことは、本当のことだ。思いも寄らない方向へと導かれ、仕事、友人関係、この牧場と、人生の大半が変わってしまった。もし、この犬が眼の前に現れなければ、この場所を手に入れることはなかっただろう。この小さな集落を望む丘の上に座って、羊と、多分ロバの到着を待っていることも、嵐の後の陽の光に輝く美しい谷を見詰めることもなかった。
オーソンの頭を膝に抱えながら鼻の横をさすってやると、この犬にしては最大限リラックスしているように見える。動物倫理学者のジェームズ・サーペルが、種を異にする生き物の間でも、人と犬は会話に近いものが成立すると書いているが、今朝そんな会話をオーソンと結んでいた。
私は保温マグのコーヒーをすすって椅子の背にもたれ、まだしっくりこない見知らぬ場所に馴染むために、周囲の景色を隅々まで眺めた。オーソンがいることによって落ち着かない気分が和らぎ、辺りも日常の風景になって、これも共に暮らす日々の続きにしてくれる。どこかの門をくぐり抜け、アウグスティヌスが描く清らかに澄みわたる空間に入り込んだ気がした。
『神の国』を朗読して今日を祝うのだと友人に話すと、みな心得顔にクスクス笑いだすが、何も私はオーソンにこの荘重な散文が理解できると勘違いしているわけではない。しかし、読んでやると喜ぶのは確かだ。私の表情に手掛りを探し、声の調子に耳をそばだてている。あとどのくらいでダラダラ続く口上が終わって、ポケットの中のビスケットに手が伸びるのかと、思案しているのだろう。
そうであっても、なお気持ちのいい瞬間だ。私はこの本が好きだ。ホテルだろうが、空港だろうが、国内どこに行くにもボロボロに擦り切れた一冊を携えている。残念ながら、神の国の静穏な空間に暮らしているわけではないが、誰もが到達したい境地だろう。聖人は、天界と地界という二つの領域があると信じていた。神の国は、その天界に当たる。その時ちょうど見詰めていた、光が差し始めた彼方と同じく、山々や大河、小川があるのだそうだ。
アウグスティヌスは宗教家だったが、宗教家ではない私のそれは、心の有り方だ。ストレスだらけの日常ではなかなか見つからない、安らいだ心持ちだ。
「神の国における至高の善は、完全不滅の平穏にある。完全不滅の平穏とは……」
大体において、平穏とは異邦の概念であるオーソンに読み聞かせていると、丘陵に懸かる雲を風が急速に押し流し、朝の光が谷を包んだ。本を閉じ、顔をのぞかせた太陽のちらちらする光を見た。オーソンは膝に頭を乗せたまま、耳の後ろをかいてもらって目を閉じている。ホーマーとローズが舌を垂らしながらやって来て伏せた。
慌ただしい都市近郊でも、ますます忙しくなってきたこの牧場でも、こういう時間は貴重だ。すぐにまたオーソンやホーマーに道路に出るなと怒鳴り、餌を注文し、メールやボイスメッセージをチェックする一日が始まる。当然のことながら、外の世界が容赦なく入り込み、いくらも経たないうちにウィルバー・プライスが家畜を運んで来るだろう。
犬は思いがけないところまで、人を連れていくことがある。ほら、私の犬はこんなところまで連れて来たじゃないか。
だが、聖アウグスティヌスは羊飼いってわけじゃない。
その数日後、気持ちの良い三日月の晩だった。眼下には集落の灯がまばらに瞬いている。羊はベドラム牧場に落ち着き、日がな一日、上の方で満足げにムシャムシャやっても、なお黙々と草を食む。うろつくコヨーテに気付くためにと購入した高性能ライトで照らせば、羊の目が光っている。
ちょっと豚小屋に入って、ホースをつながなければならない。瞬時だったら、ゲートの掛金は外したままでも大丈夫だろう。ロバのキャロルも羊と草を食んでいる。草はそこら中にたっぷりあった。この場を離れるのも、ほんのちょっとだ。
ゲートから六メートルほど離れた畜舎に入ると、背後で怒濤のごとく駆け抜ける音が聞こえた。群れは飛ぶように未舗装の私道を駆け下り、前の泥道を横切り、囲いのない採草地へ入り込んでいく。ショックとパニックが、ない交ぜになったのを覚えている。道の向こうは森が連なり、コヨーテがウヨウヨいる。その先は延々と広がる藪と平原だ。こんなヘマをやらかすなんて、なんてトンマだ! 何を考えてんだ?
だが、ここでパニックに陥ってもどうにもならないことを、この後の数週間で何度も経験していくことになる。失敗で打ちのめされるなんて珍しくも何ともない。生活の不可欠要素だ。切り抜ける方法を学ぶか、さもなければ荷物をまとめて平地に戻るしかない。殺されそうにでもならない限り、緊急電話をかけるところは無い。助けを呼ぶにはあまりに遠い。引っ越してすぐにやって来た消防団員が助言していった。
「貴重品は、いくらか家畜小屋にでも分けておいた方がいい。火が出ても、俺らが来る時分にゃ、ここは燃えちまってる。だいたい、俺ら、土台を専門に消す火消しだからなあ」
だから何とかするのは私と犬しかいない。犬を連れてこようと、家の中に走り込んだ。真っ暗で何も見分けられなかったが、音は聞こえる。捕食動物に狙われて逃げ回ったら、夜間でもガランガランと鳴る音が警報になるだろうと、雌羊二匹にベルを付けておいた。そのベルの音から考えても、それほど遠くへ行ってはいない。
だが選択肢は限られている。群れを追い掛けるには、オーソンは興奮し過ぎる。猛スピードで羊の後を追うから、てんでバラバラに逃げてしまう。オーソンは羊を追い掛け回すことと、羊追いの区別が付いていない。
ホーマーもたまに興奮して羊毛を口いっぱい頬張ることはあるが、放牧に出る経験をかなり積んでいる。ホーマーが頼みの綱だ。ローズはまだ幼い。何回か羊の近くに連れていったことはある。そんなときは我を忘れて、じっと羊を見つめていたが、羊がローズに注意を向けることはなかった。まだ五ヵ月の子犬に要求し過ぎるのは危険だ。ネスビットが向かってきたり、羊に踏みつけられたりしたら取り返しがつかない。あまりに早く過激なことをやらせれば怖気付いて、羊を相手にできなくなる可能性がある。
それでホーマーを引っつかんで外に出た。〈羊を探せ!〉とコマンドすると、道を横切り採草地へ飛び出していく。群れの外周を走ってまとめながら追い立て、私の方へと羊を戻すアウトランのトレーニングはしていたが、このときは霧の中からネスビットがいきなり現れて突っ掛かり、我を忘れたホーマーは全速力で群れの真ん中に飛び込んでしまった。
慣れない状況と突撃する犬におびえたか、別の何かにおびえたか、暗闇の中へと走り去る足音が聞こえた。行く先は深い森だ。事態は最悪だ。ハアハアと息を切らして目を見開いたホーマーを呼び戻し、急き立てて家に戻した。興奮した今のホーマーではどうしようもない。
こうなったらローズに頼むしかない。群れを戻すことはできないかもしれないが、ローズが尻込みするとは思えない。自信に欠けることがないこの子犬に、哀れホーマーは尻に敷かれっ放しだ。独占欲が強い鉄壁の意志を持つオーソンのこけおどしも効かない。しなやかで敏捷だから、うまくいけば追い付くチャンスがある。と言っても見込みがあるわけではなかったが。
ネスビットがまた飛び掛かって、ローズが迷子になるかもと心配になった。仲間と共にいる羊より、真っ暗な森や野原を一匹でさまよい歩く子犬の姿が浮かんで嫌な気持ちだ。ためらったが、これしか手がない。年端のいかない子犬だったが、ローズのにじみ出るエネルギーは信頼に足る。この犬は、仕事犬として生まれた犬だ。そして、私はこの牧場をやっていこうとするなら、こういった状況も何とかできなければならない。だとしたら、ローズに一肌脱いでもらうしかない。
ローズにリードを付けて道を横切り、インクでも流したような暗闇を見つめた。流れる雲が月に懸かり、ひときわ底知れぬ闇だ。懐中電灯を当てても、木々の幹が見えるだけだ。羊のベルの音も鳴き声も聞こえない。もうずっと向こうに行ってしまったんだろうか。
リードを外し、まっとうな牧羊トレーニングの法則を全て破るのを意識しながら、犬を信頼しようという直感が働いた。「ローズ、羊を探してくれるかい?」静かに聞いてみた。子犬はくるくる回って頼りなげに私を見る。経験から羊という言葉は理解していた。丘の家畜小屋を見上げてから、採草地の向こうを見詰め、体が浮き上がるほど集中している。何を頼まれているのかはっきりしない様子だったが、それでも気持ちの用意ができたみたいだ。
「ローズ、頼む、羊を捕まえてくれ! 探してくれ!」ワラにもすがる思いの大声で頼んだが、ローズは動かない。考える時間を与えるために黙って見ていると、子犬の遺伝子が何を湧き上がらせたものか、ウサギのように採草地へと飛び出していき、みるみるうちに懐中電灯の光の環から外れていった。
数分経つうちに、心配が恐怖になり出した。ローズも羊もどこにいるのか、皆目見当がつかない。両方とも失ってしまったんじゃないか。バカの上塗りをしたようだ。
採草地の隅にある小道を探って後を追った。地面のくぼみ、切り株や茂みに足を取られ、草のトゲや伸びた枝に服を引っ掛けた。ローズの名を叫びながら、小道を突き進む。暗闇の中で聞き覚えのない、得体の知れない物音を聞き、恐怖と疲労が襲った。五分ほど走ると息が上がり、ハアハア、ゼイゼイ、呼吸を整えるために前かがみになった。トラックで出直すべきだろうか。近所に助けを求めようか。でも、何をどう頼めばいいんだ。それに、道路はローズや羊と反対方向に延びている。
突然、前方でかすかな犬の鳴き声を聞いた。ローズの名を呼び、枝を払い除けながら進むと、数分後に小さな空地に出た。羊が一塊になって、光に目が反射している。ネスビットが頭で子犬を突き飛ばそうとするが、ローズは怯まず、一歩も引かず、吠えて鼻っ柱に噛み付こうとしている。少し後ろに下がっては果敢に攻め脅した。ネスビットは猛り狂うが、動揺している。
九キロほどの子犬が、一匹百三十キロはありそうな羊の群れを一つにまとめ、好戦的な牡羊ににらみを利かせている様子は大したものだ。歯を見せて脅しながら、群れの周りを走って一つにまとめている。突っ掛かったり、跳ねたり、ジグザグに走ったりして、モハメド・アリにも褒めてもらえそうな戦術だ。さらにネスビットは数回攻撃をかますふりをしたが、やがて群れの中に引っ込んでいった。
羊を探し出しただけでも上出来なのに、群れをまとめて私が来るのを待っていたなんて奇跡だ。しかし、羊をなだめながら約一キロの道を戻って、群れを柵の中に入れなければならない。
どうすればいいのか見当もつかなかったが、概して神経が逆立っている羊は安全な方へ進みたがる。すさまじく集中して追い立てるこの子犬よりは、私の方が安全だろう。
ネスビットの様子に用心して、懐中電灯で何度も一発お見舞いしながら道を戻り始めた。ローズは相変わらず羊の周りを走り回っていたが、手を挙げて〈後ろに戻れ〉と命ずると、後方へ下がって群れを移動させている。直感的に(だろうな)、群れの最後尾で遠のいたり近づいたりする追い込み走りを見せていた。二年掛けてもホーマーが会得できなかった技術だ。教えられもしないのに、コツをつかんだんだろうか。
羊は急き立てられ、懐中電灯を照らしながら進む私に付いてくる。ややあって、灯りが視界に入り、私はようやく自分を取り戻すことができた。群れがジグザグに進んだので、真っ直ぐ牧場に到着とはいかなかったが、着実に移動して我が家の道路まで十五分ほどで戻った。
ローズがミツバチのように群れの周りを走りながらまとめている。私は後ろ向きに歩いて手を挙げると、小さな犬にしては、ほえ声が大きいローズに追われて、群れは出奔したときと同じく、激流になって牧場に走り込んだ。丘の頂上まで羊を追い掛けたローズは、尻尾を左右に大きく振りながら駆け下りてくる。こんなにも飼い主から感謝と感激で褒められた犬はそうはいないだろう。
「よくやった、よくやったな、ありがとうよ」
身をうねらせ、顔をなめて喜ぶローズを褒め続けた。子犬はとても誇らしげだ。その資格も十分にあった。平穏なんてやつぁ、まあ、こんなもんだ。
「ベドラム牧場にようこそ!」共に家の中へ戻るローズに、声を掛けた。